「50歳を迎えても全速力で走れる」なぜデスマッチファイター・佐々木貴は戦い続けられるのか?【篁五郎】 |BEST TiMES(ベストタイムズ)

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「50歳を迎えても全速力で走れる」なぜデスマッチファイター・佐々木貴は戦い続けられるのか?【篁五郎】

 

「今に見てろよと。絶対にプロレスラーになるって決意が固まりました」

 そこから佐々木はすぐに行動を開始する。当時はインターネットもなければ、スマホもない時代。そこでタウンページで近くにトレーニングができるジムがないか探した。見つかったのが、プロレスラー・鶴見五郎が経営していたジムだった。鶴見は1971年に国際プロレスに入団した往年の名レスラー。日本人悪党レスラーとして、独立愚連隊を結成するなど存在感を発揮した選手である。このジムに佐々木は一般会員として入会し、トレーニングをスタートさせる。体ができあがってからプロレスラー養成コースへと移り、鶴見からレスラーとしての基礎を学んだ。

 鍛えられた佐々木がプロレスラーとしてデビューしたのが大学4年の秋。上がったのは鶴見が主宰するIWA格闘志塾のリングであった。

写真:プロレスリング・フリーダムズ提供

◾️WEWでぶち当たった壁。デスマッチに活路を見出す

 

 大学卒業後はDDTプロレスへと移籍した。佐々木はそれまでDDTのスタイルに憧れており、大きな期待を寄せていたという。ところが移籍してみると団体は「文化系プロレス」と呼ばれるエンタメ路線へ突き進んでしまう。そして佐々木も小中高と生徒会長を務めていたことから「生徒会長キャラ」を与えられる。

「あの頃はプロレスラーとして違和感が生じていました。でも、ちょうど同じくらいの時期に冬木弘道さん(故人)に声をかけていただいて、冬木さんの団体(WEW)に定期参戦させていただくようになったんです」

 冬木弘道は全日本プロレスで活躍した後、天龍源一郎と行動を共にし、SWSWARの設立に参加し、新日本プロレスやFMWでも活躍した名レスラーである。

 佐々木はWEWではプロレスラーとしての現実を突きつけられてしまう。

DDTではシングルとタッグのベルトを巻いたこともあったんですけど、WEWはレベルが違いました。どう見ても自分が実力的に一番下なんです」 

 当時のWEWは冬木を筆頭に、邪道、外道、田中将斗、金村キンタロー、黒田哲広とインディー団体のオールスターと呼べるようなメンバーが在籍しており、WWF(現WWE)に所属経験がある新崎人生、新日本プロレスからも真壁刀義が参戦するほどの団体であった。

 佐々木はそこで壁にぶち当たってしまう。177cmの身長は、レスラーとして大きな部類ではない。体重も90kgとこれまた軽い方であり、真っ向勝負で戦っても当たり負けしてしまう。空中殺法で勝負しようとしても、高所恐怖症でコーナーの上に立つこともできない。そんな時に先輩である金村キンタローから声をかけられる。

「デスマッチやらへん?」

 金村の言葉を聞いた佐々木は軽い気持ちで引き受けた。しかし、この誘いが佐々木貴の運命を変えることになる。

「お客さんの熱気と、自分の中の高揚感が今までと全然違うんです。全身傷だらけになるし、試合終の処置とかも地獄なんですけど、リング上の熱さというか、熱を体感してしまったときに『これだ!』と思ったんです。アドレナリンが出て興奮状態が続くんですけど、お客さんも熱狂していて『すげえ!』とか『怖え』とかリアクションも凄い。もうね、今まで味わうことができなかった感覚をデスマッチで味わっちゃったんですよ」

 佐々木はデスマッチファイターとして開花した。しかもデスマッチの経験を重ねるごとにある種のプライドが芽生えてきたという。

「メジャーと呼ばれるレスラーから『すごいですね』『デスマッチとかもう怖くてできない』とか『いつもすごいのやってるよね』『真似できない』と言われることがあります。彼らに比べたら名前も、体も全部劣っているかもしれない。でもその人たちが真似できないって言わせるだけのことを俺らは普段からしてるっていうプライドが持てる。それは凄く大きいかもしれません」

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篁五郎

たかむら ごろう

1973年神奈川県出身。小売業、販売業、サービス業と非正規で仕事を転々した後、フリーライターへ転身。西部邁の表現者塾ににて保守思想を学び、個人で勉強を続けている。現在、都内の医療法人と医療サイトをメインに芸能、スポーツ、プロレス、グルメ、マーケティングと雑多なジャンルで記事を執筆しつつ、鎌倉文学館館長・富岡幸一郎氏から文学者について話を聞く連載も手がけている。

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